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2011年5月 1日 (日)

シナリオ:ヴァレンヌ逃亡0.01

やっと大まかな設定と現役武将の配置が終わった。ふぅ。

テストプレイできるくらいの形にはなってきました。

能力値や経歴などの詳細なところの設定はこれからです。

Map1

Seiryoku1

世界には38の国があります。清でかいな。

さて、フランス革命の時代、ナポレオン達に目が行きがちですが、英雄、名将というのは世界中にいるものなんですね。そんな少しマイナーな人物伝を紹介。

 

◆阮福暎 (嘉隆帝)Gialong_2(1762-1820)

ベトナム阮朝の初代皇帝。ベトナム南部を支配した広南阮氏の一族であったが、15の頃、一族は西山阮朝に滅ぼされる。しかし、福暎は一人、辛うじて生き延びた。やがてシャムの助けを借りて西山阮朝に幾度と無く挑む。何度も失敗するが、フランス傭兵を得てフエを攻略、1802年にはついに西山阮朝を滅ぼし雪辱を晴らし、新王朝を開いた。

 

 

◆ティープー・スルタンTipu_sultan_bl (1759-1799)

マイソ-ルの虎。南インドの雄、マイソール王国の国王。当時、イギリス東インド会社の植民地化が進むインドにあって、ほぼ唯一イギリスに正面から戦いを挑み勝利した人物。その名はヨーロッパにまで聞こえた。軍と王国の近代化を推し進め、5000人規模のロケット砲部隊もいた。その射程は当時の水準をはるかに凌ぐ3000m。特に騎兵隊に対しては絶大な威力を誇った。最後は自ら剣と銃を執って奮戦し、壮絶な最期を遂げた。

 

◆ナーディル・シャーNader_shah_afshar (1688-1747)

一代くらい前の人物になるが、影響がでかいので紹介。アフシャール朝初代国王。一代でインドからイラン、アナトリア、北は中央アジアまでの広大な領域を支配した。イラン史では一代の梟雄とされ、「ペルシアのナポレオン」とも呼ばれる。

アフシャール朝は、彼の子であるシャー・ルクの代で滅ぶが、アフガニスタンの前身であるドゥッラーニ朝や、イランを統一するカージャール朝も、ナーディル・シャーの元で力を得て、独立勢力を築くに至った国である。次の時代を用意した人物であった。

 

◆アレクサンドル・スヴォーロフSuvorov_crossing_4  (1729-1800)

ロシア帝国歴代4人目にして最後の大元帥。軍事史上でも稀な不敗の指揮官として知られる。ナポレオン遠征前のイタリア戦線では、誰もスヴォーロフに勝てなかったが、気まぐれなパーヴェル1世に突然解任された。このときはもう爺さんさんだったが、変人の爺さんで、サロンなど人の多いところではテーブルの上に飛び上がったり床に身を投げ出したりエキセントリックな行動が多い。また、誰であろうと容赦なく批判したため、敵も多かった。クトゥーゾフ、パグラチオンなど、スヴォーロフに引き立てられた将軍は多い。「銃剣は銃より速い」などの名言がある。

 

◆ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツLebr019 (1776-1810)

プロイセンの皇后。王妃として絶大な人気と尊敬を集めており、国王に代わって戦後の講和会議でナポレオンと交渉した。大敗に苦しむプロイセンの崩壊を寸前で食い止めたとされる。ナポレオンからは「プロイセンの雌豹」と評された。ナポレオンが約束を破ってプロイセンの占領を要求してきたときは、国王に「名誉を全うして滅亡しましょう」と抗戦を進言、やがてこのナポレオンの行動に怒ったロシアの、対フランス徹底抗戦につながった。

 

◆ユゼフ・ポニャトフスキJponiatowski (1763-1813)

異色の経歴を持つナポレオンの元帥の一人。ポーランド=リトアニア王国の王位継承権を持つ王族であったが、ポーランドはプロイセンとオーストリア、ロシアに分割され滅亡する。ナポレオン軍が迫ったとき、故国復興のためポーランド軍を率いてナポレオンの麾下に入る。1807年にはフランスの元でポーランドはワルシャワ公国として独立し、その陸軍司令官になった。やがてフランス軍がロシアに破れ、旗色が悪くなると敵側になびくポーランド人も多かったが、ポニャトフスキは最後まで従い、ライプツィヒの戦いの最中に元帥杖を授けられる。3日後、フランス軍の殿軍の総大将として戦っている最中に、全身に5発の銃弾を受けて華々しく戦死した。

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